実家に帰省も。ー天国の父へー
月間行事特集

実家に帰省も。ー天国の父へー

毎年実家の神奈川県茅ヶ崎市柳島に行き
墓参りをするが、今年はプラス
叔父さん達の墓参りもした。
7人兄弟の4番目の父も近くそちらに行くので宜しく、と言う意味もあった。

昭和11年生まれの父は、
中学から一人
二駅隣の藤嶺学園藤沢中学に通い、
バレーボール(9人制の時代)
に青春を捧げ、
心と身体を鍛えた。
そのまま高等部に行き
全国大会優勝の
黄金時代を経験
就職は今の
TOTO
当時は東洋陶器と言ったようだがそこに夜勤で勤めていた。
昼間時間がある時にはカラテなどやっていたと子供の頃聞いたことがあった。
父の実家の近く
現在我々の実家の場所の土地を買い、
その後家を建てた。
喫茶店の学校?詳細不明
を出た後
昭和41年から
母と共に茅ヶ崎市の駅前に
喫茶店「珊瑚」をオープン。

我々子供もその年に生まれた。
つまり私と兄(ツイン)
ネルドリップ式コーヒーの純喫茶で当時は繁盛していた記憶がある。
駅の南口と、北口に2店舗を経営し
順調だったが、
時代が進み
「デニーズ」と言うファミレスがコーヒー飲み放題(今のドリンクバーのはしり)
を始め、喫茶店に陰りが来た頃
ビルの建て替えがあり
保証金が再度かかり、2階の入りやすい店舗が、入り口が変わり、狭くなり、
客足が減ってきた。
ちょうど、我々子供が父と同じ高校にバレーボールで入学していた頃と重なった。
つまり私立高校に二人同時に入ったわけだ。
出費がかさむ中、店の売上が減り始め、資金繰りは母の担当と言うか、
父は任せっきりにしていた為
ストレスは母親に来ていた。
その後乳がんを発症も母は回復したが、
喫茶店経営を辞め、自宅を改装してスナック経営を始めた年に
母は出て行った。
双子の我々が昼間大学、夜飲み屋
の生活をする中
父は隠居とばかりに
昼間は畑で野菜作りや、魚を干したり、「お通し」作りをし
店がオープンする18時には
カウンターでお客と一緒にお酒を飲み
タバコを吸いながら接客?ダベリング!
していたのを覚えている。
その後私は就職、フリーランスに、
兄がそのまま店を継ぎ、昨年35年目にコロナで経営を一旦ストップにするまで
「かんべえ」を経営してくれていた。
コロナ禍の中、店の形は今もそのままあるが使うのは、毎年の正月に家族が集まる時の食事の場所くらいで
当時の賑やかさは今はない。
その父も今年87歳になる
先に逝った兄弟のうち2人しか残っていないが、一番下の叔父も
「あなた誰?」状態だし、
父もボケて食事もままならない中
兄が一人介護をしてくれていた。

「枯れる」と、「腐る」は違うと
自然食にハマっていた頃農業の方が植物の話で言っていたが、父はまさに枯れている感じになっていた。

入院している父には、コロナ禍で会えずだったが1月3日に墓参り等を済ませ、
帰宅した夜、朝方2時30分に父は
天国に旅立ってしまった。
なんだか自由人な人だったが
ある意味羨ましいほどのいい人生だったと思う。
隠居同然で飲み屋のカウンターで
客の酒を飲みながら話していた頃の父は、今の我々兄弟の年齢より若く、
「なんちゅー若さで隠居してんねん。」
って感じだ。^ – ^
「ありがとうござまいした」
「後は任せろ」
「これでいいのだ」
^ – ^

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投稿者

小又誠
小又誠

神奈川県

コメント

  • コメント ( 6 )

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  1. お父様に息子から素晴らしいメッセージが届き喜ばれているはずです。
    ご冥福をお祈りいたします。

  2. お父様の素晴らしい人生に

    私の父も90歳で
    いつ心臓がとまってもおかしくない状況です。
    昔の人は、忍耐力ありますわ

  3. 合掌

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