「SINQ感想文コンテスト」 投稿:「志」
人生には決断しなければならない瞬間があります。しっかり決めることがどんなに難しいか…。何かを決めるというとはそこに責任が生じ、その後の人生を規定するというリスクが伴うからです。自身では何も決めることなく、他人の動勢に流されている人たちのことを大衆といい、それを構成する個人のことを「できそこないの個人」。現在のニッポンは烏合の衆団化し、他人の目ばかり気にした監視社会を底流とした妙な全体主義に陥っている…作家の適菜収氏が指摘します。コロナへの対応にしても、ロシアのウクライナ侵攻にしてもメディアによって翻弄され、政府も企業も個人も何が正しいかという軸ではなく、大衆に迎合しておかないとひどい目に合いそうだという判断に流れているように思えてなりません。
個人はもっと自立的に判断しなければならないし、自由の裏側で自己責任というしくみが機能する必要があります。その際に必須なもの、それが志ではないでしょうか。
そして、かつてのニッポンを支えてきた偉大なる先人たちがそうであったように、決め切るためには、志は自分以外の何かに向かっている方がいいと思います。自分のためではなく、誰かのため、家族のため、組織のため、お国のため…愛する何かのためという視点から決断する。それが巡り巡って自分のためでもあるという図式が美しいし、優しいのではないかと思うのです。
今日の延長線上に明日があるのではなく、小さな事から大きなことまで沢山の決断の積み重ねが明日を創る…。何も決めなくても寝て起きれば明日にはなりますが、そんな受動的な人生ではとても楽しむことができるとは思えない。志の下で主体的に決断をし続けることを楽しみたいと思います。
コメント
コメント ( 2 )
トラックバックは利用できません。
志を自分以外の対象にというキーワードはとても大切なことだと思います!以前「恩返し」ではなく「恩送り」が重要だということを書かせていただいたことがありますが、見返りが自分に来ることを前提にアクションするという発想ではなく、自分ではなく他の人へアクションが繋がっていく、広がっていくような社会が形成されることが重要だと考えます。SiNQでこのような循環型のフローを確立できればとても嬉しい限りです!
ありがとうございます。
「恩送り」…いい言葉ですね。自分の利害が目的ではなくて、結果であるようなそんな循環なら心地良いんですが。そうは言っても最近無責任な、判断しない大衆にうんざり。人と同じにする安心感を盲目的に求める感じにこのステキな循環が維持できるんだろうかって思います。とは言ってもまずは自分から…。たくさんの同志と意識を共有したいですねー。